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2017年2月22日水曜日

「郎」と「右」が違っておりました。

 先日書いた千日墓地の記事で、ついうっかりして「片岡源五郎衛門」と書いてしまったのですが、
 「違うじゃねえか」
 と、ご指摘をいただきました。そうです。私の完全なる間違いです。本当は

              
                
                “片岡源五右衛門”

 が、正しいのです。間違いついでに、この人の人となりをご紹介しておきます。

 赤穂の「華嶽禅寺」にある墓石を見ると、「片岡源五右衛門」のは「吉田忠左衛門」「原惣右衛門」に次い、右側の列の第三番目に置かれております。御歳は三十七歳でした。それくらい身分の高いお人です。赤穂浅野家の重鎮だった証拠です。だからこそ、その息子までにも、父「源五右衛門」の禍が及び,死をも賜わらなくてはならないような家柄に生まれていたのです。そこで源五右衛門が考えたのでしょうか???二人いたその息子たちは、まだ十歳にも達しないような幼子です。親です。我が子の命を、必死に、守ろうとするのは当然です。そのためには、子供たちを僧籍に入らせるのが一番です。その為に選ばれたお寺がどうした訳かは分からないのですが、吉備津にある「普賢院」なのです。ここでどのような生涯を送ったかは不明なのですが、生涯を此の地で全うしたと伝えられております。
 そのお人の墓石が千日墓地に見ることができます。なお、もう一人いたご子息は船穂の鶏徳寺に預けられ僧籍にはいられ、これ又、生涯を此の地で過ごされたとか聞いております。
 
 そんな話も残っている歴史の町「吉備津」なのです。
 

 どうして吉備津なのでしょうか。その由は今のところ不明ですが、もしかして???と考えられるようなことがあたのですが・・・・・それに付いては話が長くなりますので、また次の機会に譲ります。今日はこれまでに・・・・・・

2017年2月20日月曜日

不思議な町“吉備津”

16日(木)に高松公民館主催の「ふらっと探訪in宮内・板倉」で吉備津の街中をぐるっと一回りしました。お宮さん、お寺さん、栄西さん、熊治郎さんを訪ね、板倉に残る江戸の面影の数々も訪ねてみました。千日墓地も訪ねる予定でしたが、あまりにも各場所での名案内でついつい時間が足らなくなり、やむなく中止にしてしまいました。
 ここには、四十七士の一人、ご存じ
            「片岡源五郎衛門の子息」
 のお墓があります。
 苔むした墓石に刻まれている消えかかっている字から、武家社会の無常さや悲哀さを一身に受け止めながら精いっぱいに生きていただろう一人の若者の姿を黒墨めの僧侶と云うそのお姿を想像しながらお参りするのも、亦、何となくゆかしげな気分にさせてくれるものですよ。
 一度訪ねてみてくだし。今を生きる私たちの姿を、再度、考えてみるいい機会でなないでしょうか???

2017年2月1日水曜日

板倉宿とは

 我々が、現在、住んでいる「板倉」は、たった150年ぐらい昔ですが、いったいどんな姿をしていたのだろうかその町並みをご想像したことはありませんか???街の喧騒、馬のいななき、いきかう旅人の息使い、町の人達の歩み、そんな途方もない空想の世界のような風景がいっぱいにそこら辺りに転がっていたと云われておりますが。
   「と言われても、そんなものは知らん」
 と、思われるお方が多いのではないでしょうか。どんな様相を見せていたのでしょうかね。

 でも、そのような昔の板倉の姿をとどめている面影が、現在、多くまだ残っていると云われております。この前、西町のあるお宅を訪ねました。貴重な昔を語る遺品を沢山目にすることができ、「板倉」のありし日の姿を垣間見る事ができ感動しました。
 まだまだ、沢山のそのような昔の板倉を語る遺品が、ひっそりと声をひそめるように、密かに、「かくれんぼ」をしているのではないかと思われます。
 

 そんな消えかかっている板倉を、今、私は捜しております。お知らせいただければ、ご一緒に、過去の板倉の扉を叩いてみようではありませんか。